彦根藩の歴史Q&A

彦根藩は30万石? それとも35万石?

彦根藩が幕府から与えられた領地は30万石です。35万石と言われるのは、領地の30万石に、彦根藩が幕府から預かる蔵米5万俵を加えた数字です。5万石の領地から得られる年貢(4割を年貢として収納する計算)は2万石(=5万俵)となることから、蔵米5万俵は幕府から5万石の領地を与えられたのと同じと考え、江戸時代から35万石の格式と称することがありました。

彦根城ができたのはいつ?

彦根城は、慶長8年(1603)に築城することが決定し、同9年から工事を開始しました。天守は、京極高次の大津城天守を徳川家康から拝領して移築したという伝承がある建物で、天守の建築材に同11年5月および6月の日付を持つ墨書が確認されていることから、同11年(1606)末から翌年初めまでに天守の工事が完成したと推測されています。三重の堀に区画された城下町の全体は、元和8年(1622)までの二期工事により整備されました。

井伊直弼は何代目?

彦根城博物館では、「井伊家系図」のとおり数えて、直弼を13代当主としています。これは歴代当主1人ずつを数える方法です。他に、初代直政の嫡男直継は実質的に藩主であったことから藩主に含めたり、2度藩主の座に就いた直興・直定をそれぞれ2度ずつとする数え方もあります。領主を単純に数えればそうなりますが、当館では江戸時代以来、彦根の人々に親しまれてきた数え方を採用しています。ただ、別の数え方があるのを否定するわけではありません。

「井伊掃部頭(かもんのかみ)」とは?

井伊家は、2代直孝以降代々、当主となると「掃部頭」という通称(普段の呼び名)を用いました。初代直政のみは「兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)」です。掃部頭とは、本来、古代の律令制における役職である「掃部寮(かもんりょう)」(儀式の座を調える役職)の「頭」(長官)という意味ですが、江戸時代の大名の通称としての掃部頭は名前であり、本来の意味とは全く関係がありません。

井伊家の家紋は何ですか?

井伊家家紋|丸に橘家紋は丸に橘、旗印は井桁(いげた)です。橘紋は、井伊家先祖の共保(ともやす)が出生したという井伊谷(いいのや)(現在の静岡県浜松市北区)の井戸のかたわらに橘の木があったため、橘を共保の産衣の紋とし、子孫の衣服にも使うことになったという伝承があります。橘紋は種類が多く、井伊家の家紋は “彦根橘” と呼ばれています。美術工芸品のデザインには橘紋と井桁の両方を使っています。

井伊家の菩提寺はどこ?

彦根では、清凉寺(せいりょうじ)(曹洞宗)が歴代当主をまつる菩提寺です。江戸での菩提寺は、世田谷(江戸時代は彦根藩領)の豪徳寺(ごうとくじ)でした。その他、4代直興は、自分の信仰していた永源寺にお墓を作りました。龍潭寺(りょうたんじ)は、井伊家出身地の井伊谷にある井伊家の菩提寺で、彦根にも同名の寺が建てられました。なお、清凉寺、豪徳寺、永源寺の3箇所の墓所は、平成20年(2008年)に「彦根藩主井伊家墓所」として、一括で国の史跡に指定されました。
お願い:指定対象が墓所であるため、個人的な見学はご遠慮ください。

彦根藩士のことを調べたいのですが。

彦根藩士各家の履歴を記録した「侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)」(重要文化財『彦根藩井伊家文書』)には、歩行身分以上の家が所収されています。『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』として刊行を進めており、石高の高い家から活字化しています。『新修彦根市史 史料編 近世』や『彦根城博物館叢書4 彦根藩の藩政機構』にもある時点の藩士の役職一覧等を掲載しています。
なお、ご自身の先祖が彦根藩士と言われておりそれを確認したい場合は、学芸員が調べて回答することができます。下記の通り依頼文書を郵送ください。個人情報を取り扱う可能性があるため、郵送のみの受付といたします。

宛先 彦根城博物館学芸史料課 調査担当 宛て
〒522-0061 滋賀県彦根市金亀町1番1号

送付物

  • お知りになりたい事柄を記した依頼文書
    ご先祖の名前、住所、役職など、おわかりになる限りの情報を記してください。 追加の問い合わせをすることがありますので、ご住所のほか、連絡できるメールアドレスまたは電話番号をお知らせください。
  • 関連資料(系図など)があればその写真を添えてください。
  • 返信用封筒・切手(関連資料を返送希望の場合は、それが入る大きさでお願いします)

彦根の歴史を調べるのにおすすめの本は?

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