四十九町代官家(しじゅうくまちだいかんけ)文書
- 文書点数2397点
- 江戸時代から大正時代
四十九町代官(宮田)家は、彦根城下開発当初より下魚屋町(しもうおやまち)(現彦根市本町3丁目、城町1丁目)に住み、その後、四十九町(現城町1から2丁目、馬場1丁目)に移り住んだ有力町人です。町年寄(まちどしより)・横目(よこめ)などの町役人や、代官役(だいかんやく)・地払役(じばらいやく)などの藩の御用役人として活躍しました。本史料は江戸時代の彦根城下の有力町人の様子、城下町の町人たちの活動について詳しく知ることができる貴重な史料です。
代官役は、藩主の直轄領(ちょっかつりょう)の村々から年貢の取り集め、村方で争論が発生した時には藩と村との仲介役となる等、藩の農村統治の実務をになった役職です。約10名の定員で、城下町の有力町人の者が勤め、藩領の半分近くの村(15万石)を管轄しました。代官を勤めた家の古文書である本史料の発見により、代官制度の内容や、彼らの町の中での暮らしぶりなど、具体的な様子が詳しくわかってきました。
地払役に関しても、その職務内容は不明でしたが、江戸時代後期には、城下町の家屋敷の売買の管理や、藩の調達金などの公金運用に広く携わり、彦根藩の領内支配政策、地域の経済活動に欠かせない存在であったことを知ることができます。
村崎(むらさき)家文書
- 文書点数53点
- 江戸時代から大正時代
彦根藩家老木俣清左衛門(きまたせいざえもん)家の代官を勤め、坂田郡新庄寺(しんじょうてら)村(現長浜市)に居住していた村崎家の文書。
木俣家の領地の年貢の取り集めや、家臣への給米の配分に関する史料が大半を占めます。この史料の調査により、木俣家が独自に、領地の村から年貢を取り集めるための組織を持ち、役人を置いていたことが明らかとなりました。時期的にも江戸時代前期(17世紀)の史料が多く、当時の上級家臣の家政機構について知ることができる貴重な史料群です。