彦根藩主井伊家

井伊家は、江戸時代を通じて彦根藩主として近江国東部を中心とした一帯を治めた大名です。江戸初期と幕末を除いて領地は30万石をかぞえ、譜代大名筆頭の家格を誇りました。徳川家康の筆頭家老ともいうべき初代直政から、最後の当主直憲(なおのり)まで14代にわたり、一度の国替えもなく彦根を治め、時には江戸幕府の大老(たいろう)を勤めて徳川将軍の治世を支えました。

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井伊家の先祖

 井伊家の先祖は、遠江国井伊谷(いいのや)(静岡県浜松市)を治めた武士の家柄です。井伊家の元祖とかぞえる共保(ともやす)は、平安時代中期、井伊谷八幡宮の井戸から出現したと伝わる伝説上の人物です。戦国時代には、駿河の今川義元の配下にあり、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いでは当時の井伊家当主であった井伊直盛も討死しています。桶狭間の敗戦後、今川氏が急速に求心力を失って離反者が相次ぐ中、直盛の跡を継いだ井伊直親(なおちか)もその疑いがかけられ、今川により討たれました。

井伊直政(井伊家初代) / 永禄4年(1561)~慶長7年(1602)

  井伊直政井伊直親の嫡男が直政です。父が殺害されたため、寺などにかくまわれて育った直政は、15歳の時、井伊谷周辺に勢力を広げていた徳川家康の家臣となります。
 天正10年(1582)、22歳になった直政は、徳川家康が旧武田領の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を領する際、武田旧臣を家康配下に組み入れる取り次ぎを行っています。あわせて家康は、武田旧臣らを直政配下とし、直政を侍大将(さむらいだいしょう)に取り立てました(次項「井伊の赤備え」参照)。
 その上、直政本人は他勢力との和議・交渉にも活躍しています。特に、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死去した後の覇権争いでは、直政が徳川方を代表して諸大名との交渉にあたっています。豊臣恩顧の武断派諸大名の中心的な人物である黒田長政と信頼関係を築き、長政を介して石田三成と対立する大名らを家康の味方へ引き入れることに成功すると 、関ヶ原合戦では東軍の目付として彼らを統率しました。合戦では、先鋒を務める福島正則隊に先んじて、直政隊が開戦の火ぶたを切りますが、これは徳川秀忠率いる徳川本隊が到着しない中で開戦せざるを得なかったため、この戦いを「徳川の戦い」と印象づけるためにとった直政の策と考えられます。
 合戦後も毛利氏や島津氏など西国諸大名との講和の交渉に奔走しますが、合戦で受けた鉄砲傷が悪化したのか、慶長7年(1602)2月1日、佐和山城にて死去しました。
 直政の立場は、軍事上は徳川の主要な一部隊を率いる侍大将であるとともに、諸大名との政治交渉では家康の片腕ともいえる存在でした。江戸初期に作成された大名系図『寛永諸家系図伝』などでは、直政を「開国の元勲(げんくん)」と評し、関ヶ原に勝利して幕府を開いた功労者と讃えています。

井伊の赤備え

 井伊の赤備え井伊家の部隊は、当主から家臣にいたるまで、甲冑や旗指物など武器類を朱色で統一したことから、「井伊の赤備え」と称されました。
 この部隊が成立したのは、天正10年(1582)のことです。この年、甲斐の武田氏が滅亡し、武田を討った織田信長も本能寺の変で討たれると、徳川家康が武田旧領を手中に収めます。その際、家康は井伊直政に武田旧臣の多くを附属させ、直政を侍大将に取り立てました。その数は74名と伝えます。あわせて、武田の兵法を取り入れた「井伊の軍法」が武田旧臣らによってまとめられました。
 このように、「井伊の赤備え」部隊は、家康の命令によって創り出された精鋭部隊であり、徳川最強の軍団としてめざましい活躍を見せ、家康の天下統一を支えました。

井伊直孝(井伊家2代) / 天正18年(1590)~万治2年(1659)

 井伊直孝直政の死後、跡を継いだのは直政の長男直継でしたが、慶長19年(1614)、大坂冬の陣に出陣する際、徳川家康の命令で次男の直孝が井伊家を率いて出陣し、井伊家の当主となります。
 豊臣氏の滅亡後、徳川幕府は朝廷ら京都周辺の勢力と新たな関係を築こうとしましたが、この時、彦根にいる直孝は京都周辺の勢力との交渉役を務めました。これらが一段落した頃、前将軍徳川秀忠の遺言で、将軍徳川家光の後見役を任され、その後、亡くなるまでほとんど江戸を離れることなく、将軍家光・家綱を補佐しました。
 家光・家綱の治世は、江戸時代の社会・制度が確立した時期にあたり、直孝の果たした役割には大きいものがあります。

彦根の支配

 佐和山・彦根周辺は、古代東山道(江戸時代の中山道)と北陸道(同じく北国街道)が分岐する要衝の地で、琵琶湖水運の拠点でもありました。戦国時代までは佐和山城が拠点の城でしたが、井伊家が佐和山に入るとまもなく、新たな城の建設が計画され、慶長8年、彦根山に築城することが決定しました。 彦根城は、幕府主導の公儀普請で築かれました。慶長9年(1604)からの一期工事は、幕府から奉行が派遣され、周辺諸国から役夫が動員されました。慶長12年までにいくさに備えた城郭の主要部分を作り、公儀普請は終了します。元和元年(1615)、大坂夏の陣の後に再開された二期工事は井伊家主体で進められ、表御殿の造営や城下町の町割などの整備が行われました。これにより、彦根藩30万石の城下町として、武家や町人らが住む都市が創り出されたのです。
 彦根に築かれた堅固な城郭は、徳川方最大の兵粮米を備蓄する軍事拠点であり、井伊家の軍勢は畿内・西国諸勢力への押さえという役割を持っていました。

大老の家

  寛永9年(1632)、前将軍の徳川秀忠は死の直前、直孝と松平忠明(ただあきら)(家康の外孫)を枕元に呼び、3代将軍家光の政務を後見して幕政に参与するよう遺言しました。
 その役割は、老中らの進める政務を大局的に判断し、将軍の決定権を補佐するものといえます。確定した役職名はないものの、のちに井伊家が勤めた大老職の起源ということができます。
 3代家光から4代家綱初期は、武力を背景とした時代から、将軍の威光のもと法制度により社会秩序を保とうとする文治政治へと移行した時期でしたが、直孝は、末期(まつご)養子の禁の緩和、清(しん)に滅ぼされた明(みん)の遺臣からの出兵要請の拒否、殉死の禁など、井伊家歴代の大老時代の転換点を象徴する決断に深く関わっていました。また、直孝は、家光・家綱両将軍からの信頼のもと、筆頭家臣の立場にあって将軍家世継ぎの成長儀礼など各種儀礼において重要な役目を担いました。
直孝の役割は井伊家3代直澄にも受け継がれ、4代直興はこの役割を再編した「大老」に就きました。

井伊直弼(井伊家13代) / 文化12年(1815)~安政7年(1860)

 井伊直弼は、江戸幕府の大老として、アメリカ合衆国との間で修好通商条約を結んだ人物として広く知られています。
 直弼は、井伊家11代直中の隠居後に、その14男として生まれたため、家を継ぐ立場にはありませんでした。17歳からは、自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけた尾末町北の御屋敷に住み、文武の修養に生涯をかけようと、禅・茶の湯・国学などの修養に没頭します。
特に茶の湯では、石州(せきしゅう)流の一派を創設し、彦根藩主となってからも研鑽を積み、「茶湯一会集」などの書物を著しています。直弼の茶の湯は、茶の湯にのぞむ個人の精神を重視したもので、それを象徴する言葉が「一期一会(いちごいちえ)」です。たとえ同じ顔ぶれで何度茶会を開いたとしても、今日の茶会は決して繰り返すことのない会だと思えば、それはわが一生に一度の会であり、真剣な気持ちで、なおざりにすることなく、茶をいただく心構えが必要だという心得を示しています。

 そのような直弼に転機がやって来たのは、32歳の時。12代直亮の養子となっていた兄直元が死去し、直弼がその代わりに藩主の世継ぎとなりました。約4年間、彦根藩主の跡継ぎとして江戸で大名見習いの生活をした後、嘉永3年(1850)、直亮の死去をうけて彦根藩主となりました。
 直弼が藩主に就任して3年後の嘉永6年(1853)、ペリーが来航し、幕府は外交問題で大きく揺れ動きます。直弼は、譜代重臣として幕府の進むべき道を考え、提言を続けます。安政5年(1858)4月には、アメリカとの調印問題や将軍の後継者問題という内外の難局を打開するため、将軍徳川家定の意向により大老職に就きます。大老として幕政に尽力しますが、安政7年(1860)3月3日、桜田門外で反対派に襲撃され、命を落としました。

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