井伊直弼は幕末政治に重要な役割を果たした人物ですが、その業績はこれまで善悪両極端に評価されてきました。一般的には、強権的な政治によって反対派を弾圧したため暗殺された「悪人」イメージが強く、一方、地元彦根では、鎖国していた日本を開国に導いた偉人と高く評価されています。
評価が両極に分かれている要因は、直弼死後の歴史にあると考えます。直弼と対立していた勢力が政権を掌握し、ついで江戸幕府を倒した明治維新政府によって近代国家が築かれると、直弼の政治は批判対象となりました。政治的な思惑により、直弼の事績が正確に描かれてこなかったといえます。例えば、「安政の大獄」や「桜田門外の変」は「戊午の密勅」の結果として起こったにも関わらず、その因果関係を充分に説明せず、「反対派を弾圧した」結果と説明されてきました。
彦根の人々は、このような歴史観に反発し、明治42年(1909)の開国50年祭などを機に直弼を「開国の恩人」と評価し、日本近代の出発点を直弼に求めようとしました。
いずれの直弼評価も、近代社会の政治状況の中で作り出されたものといえますが、現在でもこれらを客観的な視点で見直すことができていないのではないでしょうか。
彦根城博物館では、井伊直弼の事績について基本的な事柄を正確に把握することが、直弼理解のスタートと考えます。そのため、直弼自筆の書状などを読み解き、それらに基づいて直弼の事績と人物像の見直しを続けています。
詳しく知りたい方は下記の書籍をご覧ください
「井伊直弼のこころ-150年目の真実-」(彦根城博物館、2014年)
ペリーが来航して開国を要求した際、幕府は外様・親藩など従来幕政へ関わってこなかった大名へも意見を求め、それ以降、彼らは幕政に発言するようになります。御三家の水戸藩前藩主徳川斉昭(なりあき)、徳川一門の越前藩主松平慶永(よしなが)、外様の薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)ら一橋派は、斉昭の男子である一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)を次期将軍にしようと激しい政治運動を展開し、朝廷にまで働きかけます。このように、朝廷の意向が政治に反映されようとする中、安政5年(1858)2月、老中堀田正睦が通商条約の許可を天皇に求めるため上京した際には、攘夷主義の孝明天皇は勅許を保留します。幕府が朝廷に伺った事柄はそのまま承認されるのが常であり、今回のような不承認は江戸時代の両者の関係でそれまで無かったことでした。
老中堀田は江戸に戻ると、一橋派の松平慶永を大老に就かせて難局を乗り切るよう将軍徳川家定に進言しました。しかし、家定は「家柄と申し、人物と申し、大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言い、直弼の大老就任が突然決定しました。将軍家定は、政治家としての資質が低いと評されることが多い人物ですが、幕政は将軍の家臣である譜代大名・幕臣が担うという根本原理を正しく理解しており、堀田の提案を退けたのでした。
安政5年4月23日、直弼が大老に就任すると、将軍跡継ぎ選定と条約調印の問題解決に向けて速やかに方針を定め、解決に向けて取り組みました。将軍跡継ぎは将軍家定と相談して紀伊徳川家の慶福(よしとみ)に内定し、条約調印については諸大名の意見をまとめて天皇の勅許を得るための政治日程を組んでいました。
ところが、6月、中国で清とイギリス・フランス軍との戦争(アロー戦争)が休戦状態となったことを受け、米国総領事ハリスは軍艦で神奈川沖までやってきて、英仏軍がまもなく日本へ押し寄せると勧告し、即時の条約締結を迫りました。6月18日、江戸城内では幕閣が集まり評議が行われました。そこでは、幕閣の多数が即刻調印を訴えますが、直弼は天皇への説明を優先するよう主張し、天皇へ説明するまで調印を引き延ばすことで方針が決定しました。しかし、ハリスに応接する外交官の岩瀬忠震(ただなり)・井上清直が万一の際は調印してもよいかと尋ね、直弼が致し方ないと回答すると、両名はハリスのもとに向かったその日のうちに調印しました。
この頃幕府では、徳川慶福が将軍跡継ぎに決定したことを公表する予定があり、一橋慶喜を将軍後継者に推薦する一橋派は、公表を阻止しようと強く働きかけていました。幕府が天皇の勅許を得る前に条約調印したことは、幕閣の外から見れば直弼率いる政権が天皇の意向を無視したと映り、一橋派は恰好の批判材料を得て、直弼を追及しました。
それでも、将軍家跡継ぎは徳川慶福と決定すると、一橋派は、開国を快く思わない天皇と手を結んで行動に出ます。8月8日、孝明天皇の勅命で、幕府に対してその政務運営を批判する文書「戊午(ぼご)の密勅(みっちょく)」が出されました。さらに水戸藩に対して、この文書を諸藩に伝えるよう勅命を下しました。天皇が一大名に命令をするのは、当時の社会体制を根幹から揺るがす重大事であり、幕府は密勅に関わった人びとを捕らえ、さらに捜査を進めました。すると、武力による政権打倒計画までも露見したため、幕府は関係者を厳しく処罰しました(安政の大獄)。
一方、直弼は老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)を上京させて、孝明天皇に幕府の意図を説明します。その結果、12月には幕府の条約調印を了解したという天皇の沙汰書が下されました。そこには「心中氷解(しんちゅうひょうかい)」(心の中の氷のようなわだかまりが解けた)と記されています。
次に直弼は、水戸藩に渡った戊午の密勅を返納させようと働きかけました。しかし、これに憤慨した藩内激派の藩士が長岡宿(茨城県茨城町)に集結し、ついにその中心人物が脱藩して江戸に向かい、直弼を暗殺して幕政を改革しようとする計画を立てました。
安政7年3月3日、この日は江戸城に諸大名が登城して上巳(じょうし)の節句の祝儀が行われます。直弼は襲撃の情報を得ていたとも言われますが、大老が登城しないわけにはいかず、予定通り登城の途につき、水戸脱藩17名と薩摩脱藩1名に襲撃されたのでした。