彦根藩の領地は、2代直孝の代より30万石で、譜代大名の中では筆頭を数えます。内訳は、近江国(滋賀県)に28万石、武蔵国世田谷(東京都)と下野国佐野(栃木県)に2万石でした。よく彦根35万石と言われますが、領地の30万石に、彦根藩が幕府から預かる蔵米5万俵を加えた数字です(5万俵が5万石の領地の年貢収入に相当するので、5万石の領地を持っているのと同じという考えです)。この預かり米は、幕府が戦争に備え、日本各地の重要拠点に置いたもので、彦根城の5万俵は最大規模のものでした。
幕末、文久2年(1862)には、桜田事変の処罰として10万石が召し上げられ、20万石となっています。
江戸時代なかば元禄8年(1695)で、城下町の町人の人口は、15,000人余り、武士人口(家族を含む)はこれより少し多く、城下全体で3万数千人の人口であったと推定されます。また、現在の彦根市域の村の人口は、41,000人余りでした。したがって、現彦根市域には、江戸時代なかばですでに7万数千人が暮らしていたことになります。
藩士は本来、大名のもとに組織された武士であり、主人との関係の結び方や戦闘における役割(騎兵か歩兵か)によって身分的な格差がありました。
知行取藩士 | 藩主から領地を与えられた騎兵。藩士の中心で約550人おり、日常の藩政の運営の役職に就きました。知行高を基準に3つの格式にわかれます。1000石以上の上級藩士は笹之間詰(ささのまづめ)、300から1000石の中堅藩士は武役席、50から300石までが平士と称されました。 |
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歩行(かち) | 歩兵で藩の蔵米を受け取る身分です。仕事は藩主の道中の御供などを行いました。 |
足軽 | 鉄砲や弓を用いて戦う歩兵で、数十人の組に編成されています。江戸後期の足軽の総人数は1120人、鉄砲隊31組と弓組6組がありました。知行取藩士が物頭(ものがしら)(足軽大将)として統率し、城下外縁部に置かれた足軽町に組単位で集住していました。また、藩の実務役人としても働きました。 |
このほか、医師や学者など、戦闘要員ではなく技能をもって仕える者もおり、彼らは藩から扶持米を得ていました。
井伊直弼が亡くなって2年後の文久2年(1862)、幕府で大きな政変が起こり、直弼の政敵であった一橋派が幕政を担うことになります。その結果、新政権は直弼政権の行った条約調印と安政の大獄を批判し、その罪を直弼と彦根藩に負わせ、10万石の領地が召し上げられました。
彦根藩では、召し上げられた10万石の回復と直弼に浴びせられた汚名をそそぐことを最大の課題とし、大坂湾の警備、大和の天誅組鎮圧、禁門の変、長州戦争など次々と出兵して、幕府のために戦いました。
しかし、慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜が大政奉還を行った後、王政復古の大号令を発した新政府は、朝幕合体的な新政権をめざす徳川慶喜を排除しようとして対立します。彦根藩はどちらに味方するかの決断を迫られ、新政府側につくことを決断しました。このように判断したのは、周辺状況から見て、近年の幕府の仕打ちを考え、直弼の名誉を回復することができるのは「勤王」であると考えたためと思われます。
新政府側についた彦根藩の兵士は、戊辰戦争で活躍を見せます。東山道軍の先鋒として江戸に向かい、彦根藩兵は新撰組の近藤勇を流山(ながれやま)(千葉県)で捕らえるなどの活躍を見せますが、小山(栃木県)では旧幕臣の大鳥圭介隊との戦闘で、敵兵に囲まれた一小隊が脱出不可能となり死力を尽くして戦った末、9名が玉砕の道を選んだいう激戦もありました。