戦国時代に鉄砲や弓などで戦った歩兵である足軽(あしがる)は、近世大名の家臣団に編成されました。彦根藩井伊家の場合、天正10年(1582年)頃には、初代直政(なおまさ)の下に組み込まれたと考えられています。その後、関ヶ原合戦や大坂の陣での活躍などにより、井伊家の家臣団は増強され、寛永10年(1633年)には1120人の足軽が井伊家に召し抱えられるに至りました。家臣団の末端に位置付けられた彼らは、弓術を担う弓組(六組)と砲術を担う鉄砲組(三十一組)に編成され、組ごとに足軽大将である物頭(ものがしら)の統率のもと、善利橋(せりばし)や中藪(なかやぶ)など城下の外曲輪(そとぐるわ)に屋敷を与えられ、門構えのある戸建ての屋敷に暮らしました。
太平の世となった江戸時代には、彦根藩の足軽は兵士として求められる軍事鍛錬、武具の管理などに努めるだけではなく、夜廻りや火消し番などの城下の治安維持をはじめ、城下を管轄する町奉行所などの藩の役所での業務、彦根城の石垣普請や大雪の際の除雪作業など、様々な藩の用務に従事しました。彼らは、兵士であると同時に、藩政を下支えする実務者としての役割も担ったのです。また、その中には絵師や漢詩人として注目される者も見られます。
幕末維新期、日本近海にたびたび異国船が出現するようになり、軍事的緊張が高まると、彦根藩の足軽は活躍の場を再び戦地に移し、相模国三浦半島(現神奈川県)の海岸警衛や、幕府軍と長州藩が争った幕長戦争などに従軍しました。そうした中、西洋軍式を導入した新たな軍制が彦根藩でも採られ、足軽がその主たる担い手となったことを契機に、藩政の中で発言力を強める者も現れます。
明治時代を迎えると、廃藩に伴い、家臣団の解体が進められました。旧彦根藩の足軽は、農業や警察官などへの転業を余儀なくされ、中には政治家として中央政界に進出する者も現れました。
本展では、古文書、甲冑や鉄砲をはじめとする武器・武具などから、近世における彦根藩の足軽の多様なあり方を紹介し、その特質に迫ります。
【関連事業】
(1)スライドトーク
(2)現地見学会
(3)シンポジウム
【主な展示資料】
▼掟
青木新右衛門筆
文政5年(1822年)
縦 31.0㎝ 横 177.0㎝
彦根市立図書館蔵
▼足軽組諸届・願書留
文政2年(1819年)~明治元年(1868年)
縦 24.9㎝ 横 17.3㎝
個人蔵
▼御入部御覧留(おんにゅうぶごらんどめ)
増嶋高実筆
上:文化9年(1812年) 下:文化10年
縦 23.6㎝ 横 16.6㎝
▼竹に虎図
大舘素雪筆
江戸時代後期
縦 132.6㎝ 横 60.3㎝
個人蔵
▼中嶋勘次郎願書
中嶋勘次郎筆
明治時代
縦 14.8㎝ 横 68.3㎝
個人蔵