慶長19年(1614)の大坂冬の陣、そしてその翌年に起こった夏の陣は、歴史の大きな転換点となった戦いです。大坂の陣での徳川方勝利は、250年以上にわたる安定した時代の始まりであるとともに、彦根藩繁栄の基礎ともなりました。
夏の陣から400年に当たる今年、この戦いで活躍した彦根藩士たちに注目します。
大坂冬の陣では、当時彦根藩主の地位にあった井伊直継(なおつぐ)に替わり、弟の直孝(なおたか)が井伊家家臣団を率い、徳川方の有力部隊として参戦しました。慶長19年11月中旬、徳川方の軍勢約20万は、豊臣方約10万が籠城する大坂城を攻撃しますが、全面的な戦闘には至らず、12月20日、講和となります。
翌慶長20年の夏の陣は、徳川方と豊臣方との最終決戦となりました。徳川方の埋め立て工事により大坂城の堀を失っていた豊臣方は、城を出て野戦に活路を見いだします。5月6日、直孝率いる井伊家部隊は、若江(わかえ)(現東大阪市)において豊臣方の木村重成(きむらしげなり)・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)軍と戦い、木村を討ちとる大勝利を挙げます(若江合戦)。翌7日、徳川方は大坂城を落城させ、大坂の陣は徳川方勝利となります。若江合戦に加え、7日の戦闘でも活躍した井伊直孝は、陣後5万石の加増を受けています。
大坂夏の陣では、彦根藩士たちが活躍した詳細な記録が残っています。若江合戦では、八田金十郎(はったきんじゅうろう)は一番鎗を入れると共に、敵方武将の山口左馬助(さまのすけ)を討ち取る軍功を挙げ、将軍より褒美を下賜されています。大鳥居彦三郎(おおとりいひこさぶろう)は、敵将を打ち倒したものの、その手柄をめぐり仲間である彦根藩士と争っています。また奮戦空しく戦場に倒れた藩士たちもいました。
本展示では、「井伊の赤備え」の一員として戦場の最前線で戦った彦根藩士たちの立場から見た、大坂夏の陣を紹介します。
◆同時開催◆滋賀県指定有形文化財 指定記念 特集展示「彦根藩井伊家歴代の甲冑」