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シリーズ直弼のこころ 企画展
「忠義の人 遠城謙道
 -主君直弼への思いと禅画-」

開催期間:平成27年/2015年8月21日(金)~9月15日(火)

表門看板

 遠城謙道(おんじょうけんどう)は、文政6年(1823)、彦根藩鉄砲足軽(てっぽうあしがる)の父・兵之助の長男として誕生しました。15歳で彦根藩に出仕し、父の跡を承けて鉄砲足軽組に入りました。銃術に巧みで、射的演習では常にトップだったと言います。
 安政7年(1860)3月3日、彦根藩主で幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ)が、江戸城桜田門の近くで水戸浪士等に襲撃されて帰らぬ人となりました。いわゆる桜田事変です。4月28日、幕府は直弼の世子直憲(なおのり)に封を継がせ、騒然とした藩内は沈静化しました。しかし、政権が替わり幕議は一変、文久2年(1862)閏8月、彦根藩は京都守護の任を解かれ、近江国神崎(かんざき)・蒲生(がもう)2郡の上知(じょうち)を命ぜられました。藩中の動揺は大きく、2郡の百姓等も日々大挙して上知反対を訴え、その騒擾(そうじょう)は計り知れないものでした。
 謙道は、幕府の処置が一転したことに堪えられず、死を以て主君の冤罪を訴えて恩に報いるのが家臣の本分と考え、賛同者と共に幕府に上訴することを約しました。そして嘆願書を携えて有志と計8人で幕府老中邸に至り、自害を試みるも厳しい警戒の中で本意を遂げることは出来ず、彦根に送還されて謹慎を命じられました。
 翌文久3年には謹慎が解けましたが、世には直弼の非を責める声があり、姦賊と称する者まで出る始末でした。これに対し謙道は、直弼の墓を掃き清めることに一生を捧げて旧恩に報いたいと考え、出家を試みましたが、士分籍にある者は許可なく僧になることは禁じられており、200日の謹慎の後に隠居を命じられました。謙道はその足で井伊家歴代の菩提寺で自らも参禅していた清凉寺(せいりょうじ)を訪れ、遂に出家を果たします。時に慶応元年(1865)、謙道は43歳、家には6人の子がおり、妻は懐妊の身、長男はまだ7歳の幼少でした。
 謙道は、間もなく直弼の墓のある武蔵国世田谷の豪徳寺(ごうとくじ)へと向かい、明治34年(1901)5月12日、亡くなるその日まで、37年の長きにわたって直弼の墓を守り続けました。明治11年(1878)には、暗殺された大久保利通に対してすぐに贈位贈官があり、その丁重な処遇を目の当たりにして、同じく国のために奔走した直弼追賞の建白書を草して関係諸機関に訴えましたが、まったく省みられずに絶望するという一幕もありました。
 井伊直弼への忠義を貫いた遠城謙道。本展では、子孫の家に伝来した資料や自身がよく描いた画賛を通して、彼の波瀾の生涯をたどろうとするものです。

*年齢はすべて数え年です。

 

おもな作品

名称
シリーズ直弼のこころ 企画展
「忠義の人 遠城謙道
 -主君直弼への思いと禅画-」
会期
平成27年/2015年8月21日(金)~9月15日(火)
休館日
会期中無休
開館時間
午前8時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
入場料
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 -主君直弼への思いと禅画-」