日下部鳴鶴(くさかべめいかく)(1838~1922)は、日本近代の代表的な書家です。彦根藩士出身で、明治維新後、新政府の官僚となって大書記官まで進みましたが、厚い信任を受けていた大久保利通(おおくぼとしみち)(1830~1878)が暗殺された後、官を退いて書の道一筋に生きていくことを決意しました。明治12年(1879)、ときに鳴鶴42歳のことです。
意外にも、鳴鶴には門下生時代というものがありませんでした。はじめは兄の影響もあって巻菱湖(まきりょうこ)(1777~1843)の書風を学んでいましたが、後に京都で活躍していた貫名菘翁(ぬきなすうおう)(海屋(かいおく))(1778~1863)に私淑、そして、官を辞した翌年、その後の運命を決定する人物との劇的な出会いがありました。その人物とは、清国公使の随員として来日した楊守敬(ようしゅけい)(1839~1915)です。
守敬は書をよくし、金石学者(きんせきがくしゃ)としても知られていました。鳴鶴は、巌谷一六(いわやいちろく)(1834~1905)や松田雪柯(まつだせっか)(1819~1881)ら志をともにする者と誘い合い、膨大な碑版法帖を持する守敬のもとに4年間通って金石学を本格的に学び、中国の漢魏六朝時代を中心とした書体を研究しました。加えて、廻腕執筆法(かいわんしっぴつほう)という書法を教授されています。明治24年(1891)には、54歳にして清国に遊学し、愈樾(ゆえつ)、呉大徴(ごたいちょう)、楊峴(ようけん)、呉昌碩(ごしょうせき)などの学者文人と交わり、碑版法帖なども積極的に収集し、見聞を広げました。
深い学識に裏付けられた格調高い書は広く世に受け入れられ、鳴鶴は近代随一の大家と仰がれるまでとなり、彼の楷書体は日本の一般の書体の基礎となりました。門人も多く、比田井天来(ひだいてんらい)(1872~1939)、丹羽海鶴(にわかいかく)(1863~1931)ら、優れた書家を輩出しています。
本展は、近年新たに収蔵した資料を含む鳴鶴作品30点余りを一堂に会して紹介するものです。作品の多くは、鳴鶴の郷里である彦根の旧家に伝来したもので、中には、名が知られる以前の書も含まれます。鳴鶴の全国的な活躍とともに、彦根の地においての彼の文化的役割を知る機会となれば幸いです。
【主な展示資料】
▼日下部鳴鶴写真 当館蔵(日下部暘氏寄贈)
▼七言詩書「青山一角…」 当館蔵(日下部暘氏寄贈)
▼瀧画賛幅 当館蔵(井戸庄平家伝来資料)