古来、多くの年を重ねた人を、単なる人間ではない人間を超えた存在とみなす考えが、広くありました。日本においても、老人は、長年にわたって培われた豊富な知識や経験を持つ年長者として尊ばれるとともに、強い生命力を備え、人々の願望である長寿を体現した、めでたい存在と考えられてきました。また、人智や寿命を超えた神に近い存在ともされ、記紀神話や『今昔物語』などの説話集、寺社の縁起などには、土地の守神である地主神(じぬしがみ)、あるいは仏が、老夫や老女の姿で現れるエピソードを多く見ることができます。このような長寿を象徴するめでたい存在、神に近い聖なる存在としての老人のイメージは、時代を通じて受け継がれ、美術、芸能、文芸などのさまざまな媒体において表されてきました。
能には、老体の神や精霊を主役とするさまざまな演目があり、その中には祝言性の高いものが多く見られます。その一つが、主に正月や祝賀などに際して上演される「翁(おきな)」です。「翁」は、能が大成する以前の古い芸能を受け継いだ、能の根本とされる演目です。老体の神である主役の翁と、これに続いて登場する同じく老体の神である三番叟(さんばそう)が、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祈念して舞を舞い、世を言祝(ことほ)ぎます。柔和な笑みを浮かべた白色尉(はくしきじょう)の面(おもて)をかけて荘厳に舞う翁、日に焼けた老夫を連想させる黒色尉(こくしきじょう)の面で躍動的に舞う三番叟の姿には、世を治め、福をもたらす聖なる存在としての老翁のイメージが、最も端的に表れているといえるでしょう。
老体の神や精霊が主役の演目の代表といえるのが、長寿と夫婦和合を象徴する演目として大いに親しまれた「高砂(たかさご)」です。また、「白髭(しらひげ)」や「大社(おおやしろ)」などの、老体の神が登場し治世を祝う演目のほか、不老長寿を祝う「枕慈童(まくらじどう、菊慈童)」なども、長寿に関係するめでたい演目といえます。
本展では、長寿や聖性の象徴というめでたい老人のイメージを反映した、祝言性の高い演目を通して、祝うべき老いの姿を紹介します。憂いのない、言祝ぎに満ちた老いの世界を御覧ください。
【主な展示資料】
▼鳩杖(はとづえ)
江戸時代中期
鳩杖の頭部
▼翁扇 蓬莱図(おきなおうぎ ほうらいず)
江戸時代後期
▼高砂図(たかさごず)
張月戴(ちょうげったい)筆
江戸時代後期 個人蔵
▼能面 鼻瘤悪尉(はなこぶあくじょう)
桃山時代