木俣清左衛門家文書(きまたせいざえもんけもんじょ)は、彦根藩の筆頭家老を務めた木俣清左衛門家に伝来した古文書(605点)です。本文書は、平成24年に彦根城博物館へ収蔵され、翌25年に彦根市指定文化財に指定された後、令和5年に滋賀県指定有形文化財に指定されました。本展は、これを記念し、指定を受けた古文書の中から、代表的な資料32件を紹介するものです。
同家初代の守勝(もりかつ)は、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)の出身で、若い時には岡崎城主であった徳川家康の小姓(主君に近侍し、身辺の雑事や警護にあたる役職)を務めたこともある人物です。一時期、岡崎を離れて明智光秀のもとで武功を挙げ、再び家康のもとに召し戻された後、家康の命で若き井伊直政の部下となりました。天正10年(1582)、家康は先に滅びた武田家の旧臣らを配下に加えると、その多くを直政の部下とし、直政を侍大将(部隊の長)とする部隊を編制します。守勝には、勇猛な彼らを統率し、若き直政を補佐する役割が期待されたのです。以来、守勝の属した「井伊の赤備え」部隊は、関ヶ原合戦までに数々の戦功を挙げ、家康の天下取りに貢献します。
直政亡き後の井伊家では、息男の直継(なおつぐ)が当主となるものの、実質的には家老らによって政務が執られました。中でも守勝、2代守安(もりやす)は、幕府や諸大名をはじめ、後に井伊家当主となる井伊直孝(当時は旗本として徳川秀忠に仕えた)などとの交流を続け、井伊家中をとりまとめる働きをします。こうした過程を経て、木俣清左衛門家は彦根藩筆頭家老としての地位を築き、その役割を代々継承していったのです。
木俣清左衛門家は、歴代が家老として藩政運営を担い、江戸中期以降は大名に匹敵する1万石の知行を得るに至ります。足軽を含め多数の家臣を召し抱えたほか、藩の軍制においては騎馬武者からなる士組(さむらいぐみ)を率いる士大将を務め、幕末期には京都や長州(現山口県)へ派遣されて戦地で陣頭指揮をとりました。また平時においては、元和元年(1615)以降、歴代井伊家当主の入部(当主となった後に初めて国入りすること)に際して、井伊家当主の木俣屋敷への御成(立ち寄ること)を受け入れるなど、固有の務めも果たしました。
木俣清左衛門家文書は、徳川家康・秀忠などの将軍家や、伊達政宗などの江戸時代初期を代表する諸大名からの書状などがまとまって含まれ、一大名家に匹敵する内容を備えた史料群として高く評価されています。本展では、彦根藩草創期の歴史や筆頭家老家の役割などを伝える貴重な古文書を中心に紹介します。
【主な展示資料】
▼明智光秀書状
滋賀県指定有形文化財
天正6年(1578)
縦 26.8cm 横 43.0cm
▼文庫金銀取出証文
滋賀県指定有形文化財
慶長19年(1614)
縦 33.5cm 横 85.5cm
▼木俣家御成格式書付
滋賀県指定有形文化財
江戸時代後期
縦 16.4cm 横 132.0cm
▼彦根藩家老用状
滋賀県指定有形文化財
慶応2年(1866)
縦 15.2cm 横 60.4cm