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井伊直興と永源寺南嶺慧詢

開催期間:令和6年/2024年8月31日(土)~9月29日(日)

 彦根藩井伊家4代の井伊直興(いいなおおき、1656~1717)は、社会が戦乱のない時代へと大きく転換していく17世紀後半から18世紀初頭にかけて彦根藩主を勤めた人物です。幕政においては、大老職を勤めるとともに、4代家綱(いえつな)から7代家継(いえつぐ)までの4代にわたる徳川将軍を支え、藩政においては、「侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)」の編纂をはじめとする家中統制、領民の支配体制の整備、逼迫する藩財政の建て直しなど、その後の彦根藩政の基礎となる政策をいくつも実施し、彦根藩中興の祖と評されました。また、仏教を篤く信仰し、歴代井伊家当主の菩提寺ではなく、近江国愛知郡にある臨済宗永源寺派の本山 永源寺(えいげんじ、現東近江市高野町)へ自身を埋葬するよう遺言し、家中や領民から1人銭1文ずつの寄附を募って佐和山中腹に大洞弁財天(おおほらべんざいてん)を造営するなど、直興には特色ある仏教信仰が見られます。そして、彼が深く帰依した人物こそ南嶺慧詢(なんれいえじゅん、1629~1714)その人でした。
 南嶺慧詢は丹波国桑田郡千ヶ畑村(現京都府亀岡市畑野町)に暮らす山内家に生まれ、幼い頃から仏道に親しみ、9歳の時に永源寺の第80世住持 一絲文守(いっしぶんしゅ、1608~1646)のもとで得度しました。一絲に就いて修行に励んだ南嶺は、慶安3年(1650)に高宮宿の徳性寺(現彦根市高宮町)の住持となった後、寛文11年(1671)には自身も永源寺第86世住持となります。この頃、井伊家とのやりとりが始まったと見られます。貞享3年(1686)、南嶺が永源寺を離れ、近江国愛知郡妹村(現東近江市妹町)にある永源寺末の松雲寺(しょううんじ)の住持となると、直興は息子 千代介(井伊直矩(なおのり)、後に還俗して掛川藩井伊家の養子となり、初代与板藩主となる)を南嶺のもとで出家させるなど、南嶺への帰依を深めました。直興は、藩主時代から自身の健康や厄難への不安からたびたび仏事を南嶺に行わせましたが、藩主を退いた後は、日々の仏道修行はもちろん、自身の300回忌の逆修法要(生前に行う追善法要)や、永源寺と松雲寺への寿塔(生前に建てる供養塔)建立を南嶺に依頼するなど、仏教信仰と南嶺への帰依をさらに深めました。
 本展では、井伊家伝来の古文書や南嶺ゆかりの寺院などに伝来した資料から、井伊直興と南嶺慧詢の人物像や交流関係、南嶺に学んだ直興の仏教信仰の具体的な様子について紹介します。

 

【関連事業】
(1) ギャラリートーク(展示解説)
日 時:8月31日(土)午後2時~ *30分程度
会 場:当館展示室1
講 師:北野 智也(当館学芸員)
その他:観覧料が必要

(2) 講演会「南嶺慧詢宛て井伊直興書状を読み解く」
日 時:9月14日(土)午後2時~3時30分
会 場:当館講堂
定 員:50名(当日先着順、受付は午後1時30分~)
資料代:100円
講 師:北野 智也(当館学芸員)

 

【刊行物】

図録『井伊直興と永源寺南嶺慧詢』
(A5版、カラー、表紙を含め52頁)

 

【主な展示資料】

▼井伊直興画像
縦 69.3㎝ 横 44.6㎝
江戸時代中期
永源寺蔵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼南嶺慧詢頂相
土佐光成筆
縦 105.2㎝ 横 51.1㎝
元禄15年(1702)
松雲寺蔵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼永源寺宛 井伊直澄書状
重要文化財
縦 38.0㎝ 横 51.8㎝
延宝3年(1675)
永源寺蔵(永源寺文書、栗東歴史民俗博物館保管)

 

 

 

 

 

 

 

▼九条袈裟
縦 139.9㎝ 横 340.5㎝
江戸時代中期
松雲寺蔵

 

 

 

 

 

 

 

▼南嶺慧詢宛 井伊直興書状
重要文化財
縦 15.9㎝ 横 61.2㎝
宝永3年(1706)

 

▼南嶺慧詢行状
縦 27.0㎝ 横 20.0㎝
享保9年(1724)
個人蔵

 

名称
井伊直興と永源寺南嶺慧詢
会期
令和6年/2024年8月31日(土)~9月29日(日)
休館日
会期中無休
開館時間
午前8時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
入場料
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展示作品リスト


主な展示作品

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