佐竹永海(さたけえいかい、1803~74)は、江戸時代末から明治時代初めにかけて活躍した絵師です。奥州会津の出身で、幼少の頃から地元の狩野派の絵師に画を学び、18歳ないし20歳頃、江戸に出て関東画壇を席巻していた谷文晁(たにぶんちょう、1763-1840)の画塾「写山楼(しゃざんろう)」に入り、20代後半にはある程度名が知られるようになりました。晩年までには自邸の「愛雪楼(あいせつろう)」と命名した室または建物で制作に取り組んでいたとみられます。
天保9年(1838)、永海は36歳にして彦根藩井伊家に召し抱えられ、御用絵師(ごようえし)として活躍します。井伊家12代直亮(なおあき)が直接文晁に弟子を採用したい旨を伝え、文晁が永海を推挙したといいます。以後永海は、13代直弼(なおすけ)、14代直憲(なおのり)の3代にわたり御用をつとめ続けました。
明確な区別があるわけではありませんが、御用絵師の仕事は、藩の公的な仕事と、当主の私的な仕事とに分けて考えることができます。前者の例として、御殿の障壁画の制作や、当主の肖像画の制作、祝いの席での席画(せきが)などが挙げられます。私的な仕事とは、特に直亮に関するものです。例えば、名器といわれる雅楽器を入手した直亮は、保存箱の新調にあたってその文様の下絵を描かせ、人から借り受けた掛軸を写させ、絵の鑑定や斡旋もさせています。永海は、幅広い趣味に生きた直亮の趣味を充実させる役割も担っていたといえます。
永海の師である谷文晁は、中国の北宗画(ほくしゅうが)と南宗画(なんしゅうが)を合わせた静謐な画風をはじめとして、多彩な画派の折衷様式をとるなど、あらゆる画風の作品を制作し、その貪欲な姿勢は「八宗兼学」と称されました。弟子である永海もまた、師同様に多彩な画風の作品をのこしており、どのような御用にも応えることのできる器用な絵師であったといえるでしょう。
彦根藩御用絵師になったといっても、永海の活動拠点は基本は江戸でした。井伊家当主は大老就任時は常に江戸に詰めており、永海には写山楼の重鎮としての役割もあったはずです。江戸で出版された本の下絵制作や絵馬の制作など、彦根藩以外の仕事にも精力的に取り組んでいます。
本テーマ展は、佐竹永海の御用絵師としての活躍を中心とした画業と、その多様な画風に注目し、永海像を浮き彫りにしようとするものです。
▼井伊直亮画像(いいなおあき) 佐竹永海筆 1幅
彦根市指定文化財 清凉寺蔵 ※全期展示
▼鷲図(わしず) 佐竹永海筆 1幅 当館蔵(井伊家伝来資料)
※前期(6月12日~29日)展示
▼提醒紀談(ていせいきだん) 山崎美成著 佐竹永海画 5冊
当館蔵(井伊家伝来典籍) ※全期展示
▼青緑山水図(せいりょくさんすいず) 佐竹永海筆 1幅 当館蔵
※前期(6月12日~29日)展示
▼林和靖図(りんなせいず) 佐竹永海筆 1幅 個人蔵
※後期(6月30日~7月14日)展示
▼花卉図(かきず) 佐竹永海筆 2幅(写真は右幅) 個人蔵
※全期展示
※その他
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