徳川の重臣であり武門の家として知られる井伊家では、大将以下足軽に至るまで甲冑や旗指物などを朱色で統一しており、その部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれました。
井伊の赤備えは、天正10年(1582)に徳川家康が若き井伊直政(なおまさ、1561~1602)をしかるべき大将にすべく、家康近侍の木俣守勝(きまたもりかつ)、西郷正員(まさかず)といった武将らや甲斐武田家の遺臣たちを直政の配下につけたことに始まります。この部隊は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いを皮切りに、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では先陣を切るなど、重要な戦場で存在を示し、徳川家臣団の中で有数の強さを誇る軍勢として広く知られるようになりました。
直政の死後、2代直孝(なおたか、1590~1659)は慶長19年(1614)と翌年の大坂の陣で赤備えを率い、豊臣方の有力武将であった木村重成(しげなり)を討ち取るなどの戦功をあげました。また、直孝は、泰平の世においても能力を発揮し、将軍家を支える重要な政務を行いました。直政と直孝の活躍は譜代大名筆頭としての井伊家の基礎を築き、その後の歴代当主や家臣たちの模範とされました。
井伊の赤備えは、近世初期ごろに成立した軍法によって、戦場での装備や軍の規律などが規定されていました。その中には、甲冑は赤色とし、大旗は朱地に無紋で統一して八幡大菩薩の流旗を付け、旗指物(小旗)は朱地に金で自らの家の名前を記すなどとあります。しかしながら、軍法の中には甲冑の形を細かく定めたものはなく、藩主や藩士の趣向、時代の変遷によって様々な甲冑が作製されていました。
本展では、第1章で直政、直孝の甲冑や実際に使用された武器・武具、合戦図などを通して、戦乱の時代における井伊家の活躍に注目します。第2章では、近世を通じて受け継がれた藩主や藩士の赤備えの甲冑・武具を展示し、赤備えの威容をご覧いただきます。
【主な展示資料】
▼朱地井桁紋旗印
天地 331.0㎝ 幅 204.0㎝
桃山時代
▼井伊家軍法定書
縦 36.2㎝ 横 174.0cm
江戸時代 宝暦6年(1756)
▼朱漆塗木瓜紋蒔絵鞍・鐙
鞍 前輪 27.1cm 後輪 25.6cm 鐙全長 28.5cm
江戸時代 宝永2年(1705)